三嶋一輝投手 野球人生年表 完全版

本日、引退試合が行われる横浜DeNAベイスターズ・三嶋一輝投手の誕生から中学・高校・大学・13年のプロ野球生活を振り返る「野球人生年表」になります。ベイスターズでの13年間、不屈の負けじ魂で投げ抜いてきた三嶋投手は、どのように育ち、どんな道のりを歩んできたのか。野球人生の交差点、三嶋一輝野球人生年表。引退試合のお供に噛みしめながら振り返って参りましょう。
村瀬秀信 2026.03.14
読者限定

本日3月14日は今年1月17日に現役引退を発表した三嶋一輝投手の引退試合が横浜スタジアムで行われます。そこで、先日の「新・横浜に入る悦び36」で登場した「三嶋一輝野球人生年表」を、三嶋さんの証言をもとに加筆修正を加えた完全版にしてお送りします。

※この野球人生年表は全10部から構成されています。
1 誕生~元岡中学編
2 福岡工高1・2年生編
3 福岡工高3年生編
4 法政大学1~3年生編
5 法政大学4年生編
6 横浜DeNAベイスターズ入団~3年目編
7 横浜DeNAベイスターズCSと覚醒編
8 横浜DeNAベイスターズクローザー編
9 横浜DeNAベイスターズ難病・復活編
10 横浜DeNAベイスターズ晩年・引退編

【誕生から元岡中学時代】

三嶋一輝は1990年、福岡市に生まれた。
父・一彦さんは福岡大大濠高が初めて甲子園に出場した時のキャプテンである。だが時代はJリーグ誕生直後、サッカーブームの真っ只中。三嶋少年は野球ではなくサッカーを選び、「将来有望な逸材。今後が楽しみだ」と期待を受けてきた。

しかし卒団間近の6年生の夏、急遽「野球をやります」と怡土少年野球クラブへ移籍。サッカー指導者を嘆かせたのは言うまでもない。

もともと父への憧れがあり、キャッチボールも父と続けていた三嶋は、中学になったら野球部に入ろうと考えていた。進学先の元岡中学野球部は、三嶋の祖父が父のために掛け合って作った野球部だった。ほとんど投手のルールもわからないまま始まった中学野球は、赤池監督の厳しい指導のもとで野手として形になっていく。大会では目立った成績こそ残せなかったが、中学3年生で遠投110mという数字が、怪物の片鱗を示し始めていた。

しかし、高校は父の母校・福岡大大濠を志すもセレクションに不合格。他の強豪校への道も閉ざされ、選んだのが公立の福岡工高だった。強豪校に選ばれなかったという事実が、三嶋の負けん気魂に火を点けることになる。

【福岡工高時代(1・2年生)】

福岡工高の同級生には、のちに高卒で日本ハムに入団する中島卓也内野手がいた。
三嶋自身は内野手を志望していたが、森山博志監督は迷わず投手として育てる道を選ぶ。子どもの頃から何の根拠もなく「プロに行く」と言い続けていた三嶋は、高校1年になると「140キロを投げてソフトバンクへ行く」と具体的な目標を友人に語るようになった。根拠は、やはりなかったそうである。

森山監督の指導は厳しく、冬練では百道浜をひたすら走り込んだ。冬を越えるたびに球速は目に見えて伸び、2年生から主戦投手として頭角を現すと、春のNHK旗杯では優勝投手となった。夏の大会ではエース番号をもらい5回戦まで進んだが、飯塚との一戦では序盤で8失点。最後の夏を迎えた3年生投手がベンチに座る中でも、森山監督は三嶋がマウンドを降りることを許さず、完投させた。三嶋は先輩たちへの申し訳なさと自身への情けなさを噛み締めながら、「エースとしての責任」と「ピッチャーはチームを勝たせる存在でなければならない」という意識を、腹の底に刻み込んでいった。

その冬、悔しさをトレーニングにぶつけ、百道浜の風になった三嶋一輝は、投手として覚醒する3年生を迎える。

【福岡工高時代(3年生)の年表】

3年生の春、三嶋一輝の投手としての才覚が一気に花開いた。

百道浜の冬を越え、春になると最速は147㌔にまで大幅アップ。スライダーのキレも目に見えて良くなっていた。
福岡南部大会では、秋に敗れた沖学園、入学時のセレクションで落とされた福岡大大濠にリベンジを果たす。決勝こそ強豪東福岡に敗れたものの、51イニングで65奪三振という堂々たる数字を引っ提げて九州大会に乗り込んだ。

1回戦の相手は、2006年に甲子園準優勝、翌年に全国優勝を果たす清峰高校。2年生今村猛(のち広島)との投げ合いで、三嶋は8回2死まで無安打の快投を演じた。続く2回戦は直前のセンバツを制してきたばかりの沖縄尚学。エース東浜巨(のちソフトバンク)こそ登板しなかったものの、嶺井博希を擁する打線から毎回三振を奪う14奪三振で大金星を挙げる。準決勝の宮崎日大戦では7回からリリーフで登板し、延長13回まで7回無失点のパーフェクトリリーフ。決勝の浦添商業戦も完封し、九州の強豪校を相手に34回で50奪三振と圧巻のピッチングでプロ注目の存在へと駆け上がる。

しかし大会直後に腰を故障したこと。投手に転向してまだ日が浅いこともあり、大学でさらに成長してからドラフト指名を目指す。

「4年後、プロに入ってすぐに活躍できる投手になる」——そう決意した三嶋は、法政大学の門を叩いた。

【法政大学時代(1~3年生)の年表】

2009年の春、東京六大学リーグで1年生三嶋一輝は衝撃のデビューを果たす。
開幕戦の立教戦でいきなり一場靖弘が持つ最速記録の154㌔に並ぶデビューを飾り、六大学関係者を驚かせる。高校野球部を引退し、大学に進むまでの間に近所の温浴施設でおじいちゃんたちに囲まれて体幹を鍛えていた(腹筋)成果が表れたようだ。
デビュー戦後は守護神として法政大学のリーグ優勝に貢献。全日本大学選手権にも勝利し、いきなり「日本一」に駆け上がる。
2年生の春には最優秀防御率のタイトルを獲り、順風満帆と思われていた。しかし、先発となりエースの期待を受けた3年生の春は調子が上がらず苦しいシーズンとなってしまう。

「リリーフの方がいんじゃね?」。何気ないチームメイトの声にカチンと三嶋の負けじ魂に火がつく音がした。

【法政大学時代(4年生)】

「プロに行くために大学進学を選んだのに、このままじゃ何をしに来たのかわからない」
そう誓いを新たにして迎えた大学最後の年。三嶋は本来の輝きを取り戻す。

春のリーグ戦で慶応相手に延長10回12奪三振完投勝利を飾ったが、右肘に違和感を覚えて途中離脱。だが三嶋はその時間を無駄にせず、フォームの見直しにあて秋を目指した。

秋のリーグに向け、1日200〜300球の投げ込みを月曜~金曜日まで5日連続で約1か月間続けた。「肘が弱いなら肘を鍛えればいい」——その言葉が、三嶋という男の生き様である。

六大学最後となる秋のリーグ戦。先発した4試合で全勝のうち3試合完投。連勝すれば優勝となる明大第1戦も完投で勝利すると、翌朝に体の状態を確認して監督に先発を志願。なんと二日連続の完投勝利で法政大学を7季ぶりの優勝に導いてしまう。4勝0敗、防御率0.89。最多勝・最優秀防御率・ベストナインの投手三冠を手土産に最高の形でドラフト会議を迎える。

そして10月25日。ドラフト1位確実と言われながら指名を受けたのは横浜DeNAベイスターズの2位。当時の横浜はDeNAが親会社になったばかりで5年連続最下位爆進中と九州の人にはなじみが薄かったからか、ドラフトで中継されていた地元福岡の後援会からは指名の瞬間「えーっ、横浜かよ」と思わずため息が漏れた場面が抜かれてしまった。この中継終了後に三嶋は「そういうことは言わないでください。俺はうれしいんだ」と抗議したとか。

そんな三嶋に届いた背番号は「17」。横浜のエース番号だった。


この先は読者限定となります。横浜DeNAベイスターズに入団し、1年目からオールスターに出場したルーキーイヤー。初のCS出場、リリーフ転向で連日投げ続け、守護神となった時代。突然の難病と復活までの道程。最後の引退まで燃え尽きることのなかった三嶋投手の”負けじ魂”の13年を辿ります。
無料で登録できますので、以下からメールアドレスの登録をお願いします。

この記事は無料で続きを読めます

続きは、3332文字あります。

すでに登録された方はこちら